Masuk「――それで、莉子。大事な話って何なの?」
夕食にみんなでオムライスとサラダを食べ終え、洗い物などの後片付けを母と二人で終えた後、あたしは母に訊ねられた。ここには父もいるので、話すには絶好のタイミングだと思う。
奏には「ママの見えるところで大人しく遊んでて」と言ってあって、彼女はお気に入りのぬいぐるみで遊んでいる。
「あのね、あたし、転職しようと思うの。正社員で働きたくて」
「正社員? だってお前、そしたら奏のお迎えは――」
「分かってるよ、お父さんの言いたいこと。でもね、入りたい会社はもう決まってて。そこはフレックスタイム制で出勤時間も帰る時間も自分で選べるから、今までどおり保育園のお迎えにも行けるの。だから心配しないで」
あたしは父を安心させたくて、まずそう言った。両親がいちばん心配しているのは、あたしが正社員として働くようになることでわが子である奏を
「そう。それならいいんだけど……。でも、どうして急に転職、それも正社員で働きたいなんて。……そういえば、今日お迎えが遅れたこととも関係があるって言ってたわね」
「うん。だから、それも話さないとね。――お父さん、お母さん、高倉瑛司くんって憶えてる? あたしの幼なじみで、中三の夏に引っ越していった男の子」
「憶えてるわよ。確か莉子、その子のことが好きで、転校を知ったときには大泣きしてたわよね」
「……母さん、その話は聞かせないでくれ。父親にとっては耳に毒だ」
父が母の横でしかめっ面になった。やっぱり父親っていうのは、娘の恋バナを聞きたくないものらしい。
「……で、その初恋の相手がどうかしたのか?」
「実はね、今日、瑛司くんと十年ぶりに再会したの。彼、あたしが働いてるファミレスにお昼を食べに来てて。で、パートが終わってから待ち合わせしてカフェで会って話した。瑛司くんね、今年商十億の会社の社長さんになってて、『ウチの会社で一緒に働かないか』って言ってくれて。それも正社員として」
「あの瑛司くんが……社長さん? そうなの……。もしかして、自分で会社をやってるの?」
「うん。大学在学中に起業したって言ってた。ホームページも見たけど、けっこうしっかりした会社みたいだよ」
あたしはスマホカバーに大事に挟んであった彼の名刺を取り出して、二人が見えるようにテーブルの上に置いた。
「莉子、この会社の業務内容は?」
「他の企業さんに依頼されて色んなプランニングをしたり、経営コンサルティングみたいなことをしたり、アプリの開発をしたり。大企業からの依頼もあったりするみたい。それで業績を伸ばしてきたんだって」
詳しい業務内容までは瑛司くんから聞いていなかったので、これらの情報はホームページで調べたものだ。求人フォームも載っていたので仕事内容も確かめてみたけれど、難しい仕事はなく、基本的なパソコンの操作さえできれば問題ないらしい。でも、なかなか応募者が来ないようだ。
「あたし、いつかはこの家を出て奏と二人で暮らしていきたいと思ってるの。そのためにお金も貯めてるけど、パートじゃなかなか厳しくて。だからって、掛け持ちしたら奏と過ごす時間が削られちゃうし。でもこの会社だったら時間の融通も利かせてもらえるみたいだし、正社員だから今より収入も確実に増えるし言うことなしなの。だからお願い。お父さん、お母さん、あたしの転職を認めて下さい!」
あたしは奏を産みたいといった時と同じくらい……いや、あの時以上に真剣な気持ちで両親に頭を下げた。
「奏ちゃんは……、何て言ってるの?」
「『どんなお仕事してるママも大好き』って」
「そう。……まぁ、いいんじゃない? 奏ちゃんがいいって言ってるんだし。ねえ、お父さん?」
「そうだな。奏のことで、父さんと母さんに迷惑かけないなら、いいんじゃないか。それは約束できるな?」
「もちろん、二人には迷惑かけないから。約束するよ」
「……分かった。自分で決めた以上、頑張れよ、莉子。奏のためにもな」
「うん。ありがとう、お父さん、お母さん! あたし頑張るから」
――こうして、あたしは瑛司くんの会社に入ることを両親にも認めてもらえた。さて、早く彼に連絡して安心してもらわなきゃ!
「あとは福利厚生についてだけど……。通勤にかかる交通費は全額会社負担。有給休暇ももちろん取得できるし、他にも色々と休暇が申請できる。慶弔休暇――ハネムーン休暇とか、身内に不幸があった時の忌引きとかだったり、女性なら生理休暇とか産休・育休ももちろん取れる。それと年に二回、七月と十二月にボーナスも出る。あと、社内のイベントもいくつかあって……、これは強制参加じゃない。それでもって家族連れ、子連れでも参加OK」「えっ、会社のイベントなのに子供連れてきてもいいの?」「ああ、もちろん。だから莉子も、遠慮しないで奏ちゃんを連れておいで。一緒に楽しもう」「やったぁ! 奏もきっと喜ぶと思う」 ここまでひととおり会社の説明を受けたけれど、こんなにすばらしい会社、他にないんじゃないだろうか。ここで働けるあたしは幸せ者だ。「……と、ここまで駆け足で説明したけど、他に何か質問ある?」「えっと、入社日なんだけど。どこまで調整してもらえるかな? パートの退職手続きのこともあるから、明日からってわけにはいかなくて」「そうだなぁ……。とりあえず、退職の手続きやら諸々の猶予を考慮して……。今日が九月の十四日だから、十月一日からってことで調整しようか。パート先の雇用保険は?」「なかったと思う。だから、退職の手続きは退職願を出して、制服とかロッカーのカギとかの備品を返したら終わりなの」「分かった。それなら、半月もかからないか。というわけで、ここからは簡単なテストをしてもらうのと、パソコンのスキルを見せてもらいます。筆記用具とパソコン、持ってきてるよな?」「うん。……あ、ちょっと待って。瑛司くん、これは仕事とは関係ない質問なんだけど……」「ん? どうぞ」「一昨日言ってたことは、あたしへのプロポーズ……ってことでいいの? 奏の父親になりたいって」 今日彼に会ったら、どうしても訊きたかった。彼に、あたしとの結婚の意思があるのかを。自分の子ではない子供の父親になるなんて、軽い気持ちで言えるようなことじゃないから。「もちろん、俺はそのつもりで言ったんだよ。本気だから。莉子と結婚して、奏ちゃんと養子縁組して親子になるって。だから俺のこと信じてほしい」「うん、分かった」「それじゃ、テスト始めるから準備して」「は
「――お待たせ、莉子。それじゃ、今から面接を始めます。本日面接官を務める、社長の高倉です。よろしく」「はい、よろしくお願いします」 形式的なものとはいえ、一応は採用面接だし人目もあるので(誰がいつ覗きに来るか分からないし)、あたしたちはそれらしい挨拶から始めることにした。そして、何だか照れ臭くなって二人で笑った。「……やっぱやめた。もうここからは普通に話そうな」「うん、そうだね」「じゃあまず、履歴書見せてもらおうかな」「はーい。これが履歴書ね」 瑛司くんは白い封筒から履歴書の用紙を取り出して、広げて目を通し始めた。 履歴書の内容はあまり重視しないと聞いたので、必要最低限のところしか記入していない。最終学歴は大学中退、職歴は今働いているファミレスのパートのみ。資格は特になし。それでもパソコンの基本的なスキルはある程度習得済み。それが今のあたしだ。「……うん、なるほど。大学を辞めてからパートが決まるまでに空白の期間があるのは、奏ちゃんを保育園に預けられるようになるまで待ってた、ってことだよな?」「うん。そうでなくても、子供を産んだ後一年くらいは体がボロボロで働ける状態じゃなかったから」「分かった。そうだよな……、母親って大変だよな」「うん……、大変なの。……あのね、志望動機は一応、頑張って考えて書いたの。一昨日カフェで話したことそのままだけど。奏と二人で生きていくのに貯金をもっと増やしたいからパートだけじゃ厳しくて、それでも奏との時間も大切にしたいからフルタイムはムリで。……こんなの、あたしのワガママだって分かってるよ。他の会社だったらきっと門前払い食らうところだったと思う。でも、この会社なら正社員だけどフレックスタイム制だからそれが両方叶う。それがあたしの志望動機です」「なるほど。いいんじゃないかな、その動機で。他の会社だったら確かに落とされそうだけど、ウチの会社ならそれで十分。――それじゃ、給料とかフレックスタイム制についてとか、あと福利厚生の面について説明するよ。まずはこの資料に目を通して。その後、俺から補足説明するから」「うん」 あたしは手渡されたプリント用紙数枚分の資料に目を通していく。あたしは正社員として働いた経験も、大学時代に就職活動をした経験もないので、会社勤めってこういうことなんだなと思うと何だか新鮮な気持ちだった。就活
――翌々日、あたしは奏を保育園に預けてから駅前まで証明写真を撮りに行った。履歴書を書くなんて二年ぶりだ。「……えっ? 今、証明写真撮るのって千円もかかるの? 高ーい……」 撮影機の側面に書かれた価格を見て、あたしは愕然となる。二年前は確か七百円くらいじゃなかったっけ? いつの間にこんな値上がりしたんだろう?「千円の出費は痛いけど、しょうがない。これも瑛司くんの会社に入るためなんだから」 カーテンを開けて中に入ると千円札を投入口に突っ込み、撮影に臨む。そのために今日は、わざわざ清潔感のある白い襟付きのシャツにカーディガンという格好で来たのだ。ボトムスは普段穿いているデニムパンツだけれど。 口角を上げ、愛想よく写るように。――ネットで調べてきた、面接官の心証をよくする証明写真の撮り方を実践する。面接官は十年間会っていなかった初恋の人なので、余計にあたしのことをよりよく見せたいという気持ちは強い。「……うん、なかなかいいんじゃない?」 撮影から一分後に出来上がった写真は、元の写真写りの良さも相まってなかなか愛想よく、美人に撮れているのであたしは満足した。 パンツスーツは大学時代に買ったものが家にある。奏を出産しても体型はあまり変わっていないので、昨夜着てみたらまだ十分着られた。 家に帰ってから履歴書を書き(用紙は二年前に買った分がまだ残っていたので、それを使った)、撮ってきた証明写真を一枚切り取って貼り付ける。 志望動機はどう書こうか悩んだけれど、「将来娘と二人だけで生活していくために貯金をしていて、パートの収入ではそれが厳しかった。正社員としての御社の収入と、フレックスタイム制という点が保育園に娘を迎えに行かなければならない私には助かるので、御社で働く
『――もしもし、莉子?』 奏をお風呂に入れる前に瑛司くんに電話すると、彼はすぐに出てくれた。彼はもう家に帰っているんだろうか? それともまだ会社に残っているのかな?「うん。あの……、あの話の返事をしたくて連絡したんだけど。今大丈夫?」『ああ、大丈夫。まだ会社にいるから。……あ、莉子の連絡先、さっそく登録しといたよ。で、もう決まった?』「あたしも登録したよ、瑛司くんの連絡先。――でね、返事なんだけど。あたし、瑛司くんの会社で働くことに決めた。両親も奏も賛成してくれたから」『そっかそっか。よかった。正直、断られるの覚悟してたから』 あたしの返事を聞いた彼はすごく嬉しそうだ。多分、求人を出しても応募者が来ないから、というのもあるだろうけれど。理由はきっとそれだけじゃない。あたしと一緒に働けるのが嬉しいんだと思う。「ねえ、いつから行ったらいいの? 一応あたし、パートの退職手続きとかもあるから明日からってわけにはいかないけど」『一応、形だけでも面接して、その時に給料の額とか待遇について説明するから。それから入社日を決めるってことでどうかな? ――面接、明日は都合どう?』「明日はシフト入ってるから……、ごめん」『そっか。じゃあ……明後日の午後二時はどうかな?』 彼は手帳で自分の予定を確認しながら電話で話しているらしい。社長ともなれば、来客があったり約束が入っていたり、何かと忙しいのだろう。「明後日なら大丈夫。パートお休みだから。それじゃ、面接は明後日の午後二時ね。会社の場所は、名刺に載ってる住所をナビアプリで調べれば分かるよ。で、何持っていけばいい? 履歴書とか必要?」『一応、持ってきてもらった方がいいかな。写真付きで。……っていってもウチの会社は履歴書の内容って重視してないし、今回は俺がスカウトして来てもらうようなもんだから。写真も社員証用のヤツは面接の後にウチで撮るし。あとは……筆記用具と、自分用のパソコンってある?』「うん、持ってるよ」 あたしは仕事でパソコンを使うことはないけれど、保育園の書類を書いたりネット予約などでは使っている。『それじゃ、それも重いだろうけど持ってきて。莉子のパソコンスキルがどのくらいなのか見せてもらいたいんだ。とりあえず、ワードとエクセルくらいは使える?』「まあ、基本的なことは何とかね。大学でも習
「――それで、莉子。大事な話って何なの?」 夕食にみんなでオムライスとサラダを食べ終え、洗い物などの後片付けを母と二人で終えた後、あたしは母に訊ねられた。ここには父もいるので、話すには絶好のタイミングだと思う。 奏には「ママの見えるところで大人しく遊んでて」と言ってあって、彼女はお気に入りのぬいぐるみで遊んでいる。「あのね、あたし、転職しようと思うの。正社員で働きたくて」「正社員? だってお前、そしたら奏のお迎えは――」「分かってるよ、お父さんの言いたいこと。でもね、入りたい会社はもう決まってて。そこはフレックスタイム制で出勤時間も帰る時間も自分で選べるから、今までどおり保育園のお迎えにも行けるの。だから心配しないで」 あたしは父を安心させたくて、まずそう言った。両親がいちばん心配しているのは、あたしが正社員として働くようになることでわが子である奏を蔑ろにするんじゃないかということだと思ったから。「そう。それならいいんだけど……。でも、どうして急に転職、それも正社員で働きたいなんて。……そういえば、今日お迎えが遅れたこととも関係があるって言ってたわね」「うん。だから、それも話さないとね。――お父さん、お母さん、高倉瑛司くんって憶えてる? あたしの幼なじみで、中三の夏に引っ越していった男の子」「憶えてるわよ。確か莉子、その子のことが好きで、転校を知ったときには大泣きしてたわよね」「……母さん、その話は聞かせないでくれ。父親にとっては耳に毒だ」 父が母の横でしかめっ面になった。やっぱり父親っていうのは、娘の恋バナを聞きたくないものらしい。「……で、その初恋の相手がどうかしたのか?」「実はね、今日、瑛司くんと十年ぶりに再会したの。彼、あたしが働いてるファミレスにお昼を食べに来てて。で、パートが終わってから待ち合わせしてカフェで会って話した。瑛司くんね、今年商十億の会社の社長さんになってて、『ウチの会社で一緒に働かないか』って言ってくれて。それも正社員として」「あの瑛司くんが……社長さん? そうなの……。もしかして、自分で会社をやってるの?」「うん。大学在学中に起業したって言ってた。ホームページも見たけど、けっこうしっかりした会社みたいだよ」 あたしはスマホカバーに大事に挟んであった彼の名刺を取り出して、二人が見えるようにテー
「――奏ー、お待たせ! お迎え、遅くなってごめんねー」 あたしはいつものお迎えの時間より少し遅れて保育園に着くと、先生たちと一緒にお行儀よく待っていた可愛い娘に駆け寄った。「あっ、ママ~!」「お仕事終わったよー。奏、今日もいい子にしてた?」「うん! カナたんね、きょうおえかきしたの。ママのおかおかいたんだよー」「そっかそっか。お家に帰ったらママに見せてね。――先生、今日もお世話になりました。すみません、お迎えが遅れてしまって」 舌足らずでたどたどしく、それでも楽しそうに話してくれたわが子の頭をいい子いい子と撫でながら、あたしは担任である若い――といっても多分あたしよりは年上の女性の保育士さんに頭を下げる。「いえいえ。奏ちゃん、今日も元気でいい子でしたよ。よかったねー、奏ちゃん。ママ、お迎えに来てくれたね。それじゃ、また明日」「は~い! せんせー、またあした。さようならぁ」「さようなら、先生。また明日もよろしくお願いします。――じゃあ帰ろ、奏。夕飯のお買い物しなきゃ」 あたしはもう一度先生に頭を下げてから、奏と手を繋いで歩き始めた。これから向かうのは、いつも買い物をしているスーパーだ。 食事は基本的にあたしが作っている。それは母から強制されたわけではなく、自主的に始めたこと。夕飯のメニューは奏の好きなもの中心になるけれど、両親もまだ若いので一緒に喜んで食べてくれている。「奏、今日は何食べたい?」「んーとねえ、オムライスがいい!」「オムライスかー。お昼は何食べたの?」 奏の通っている保育園には給食があって、夕飯のメニューは基本的にそれと被らないように考えているのだ。……まぁ、被ったら被ったで奏は「ママのゴハンおいしい!」と喜んで平らげてくれるのだけれど。「ハンバーグとねえ、チキンライス」「そっか。うん、分かった。じゃあ今日はオムライスにしようね。……待って、ばぁばにお電話するから」 あたしは繋いでいた娘の手を離し、トートバッグからスマホを取り出して母のスマホにかけた。ちなみに、あたしの実家には固定電話はないのだけれど、両親もそれぞれスマホを持っているので連絡を取るのには困らないのだ。 奏はあたしの側を離れずにじっとしている。あまり手がかからない子なので、こういう時すごく助かっている。「――もしもし、お母さん? 今仕事帰







